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ま~るい地球

ま~るい地球

障害者福祉

生まれてこの方、「福祉」と言う言葉一緒に歩いてきたようなもの。離れたくって離れたくって。弟が知的障害者であるからである。もっと詳しく言うとLD(学習障害)文字障害を持っている。何それ?漢字が読めないのよ。人の半分も。大事な公文書は理解も出来ない。見た目、どこにでもいるような兄ちゃん。話しても、なかなか敬語がしっかりしている、しっかりした良くできる子。画像、絵の才能は飛びぬけて能力があると私は見ている。でも決定的なところで決断能力弱い。

母は近くの公立大学の福祉科へ私を進学させたかった。
でも私はその母のレールに乗らなかったのさ。
弟とは違う自分の人生を歩いていきたかった。
そして私の目は海外へと向けられていった。
ボランティアもいっぱいやったよ。でもそれは国際ボランティアで、アムネスティーの手紙書き運動だったり、子供達への支援だったり。
「障害者福祉」には一切手を出さなかった。

でも簡単にはレールは外れないんだよな。
母親が倒れて、弟の国立養護学校の中学受験は私の双肩に掛かった。無事入学。それから、私は弟が中学を卒業するまで、保護者会にも、授業参観にも、イベントにも参加した。お弁当の日には周りのお母さん達に負けないように、お花のお弁当、顔のおにぎり、徹夜してでも作った。自分の高校生活は終わった。でも、障害を持った子供達の素直さは好きだった。駆け引きのない付き合いが心地よかった。ただし、保護者の方々には感謝しているけど「○○君はいいわね~、いろいろさせてもらえて」
そして終着駅は「誰が一番かわいそうか?」に行き着くことには閉口した。

私にも転機があった。
弟がイギリスに留学することになった。
弟が言った一言で私は動いた。「チャレンジはしてみたい」
ダスキン愛の輪基金
この団体はダスキンがバックアップして障害者を海外へ送り出して、障害者のリーダーを作っていこうとする慈善事業である。当時は1年間の長期プログラム中心で、パラリンピック選手を何人も輩出している。私は弟のサポーターとしてみんなと一緒にテスト、面接、研修を受けた。ただし、留学には同行できなかった。私のキャパが限界を超えていた。仕事・修士課程での研究・留学の手続。私はイギリスまで行って大学の了承を得るところまでして、あとは母にバトンを渡した。結果それでよかった。彼の留学になったわけだから。留学中に受けた同行者の言葉の暴力には私は違うページで訴える。ダスキンのメンバーは私にとっても大切な人々になり、「障害者が海外に行って得るものは何か?」という問題を考えるきっかけになった。

このつながりを期に半年ほどNPO障害者支援ネットワークでアルバイトをすることになる。NPO立ち上げたばかりの組織作りのお手伝いをさせていただいた。でも、辛かった。ケースワークの書類を目にするたびに、心が痛んだ。こんなことで躓くのかと・・・。だから、半年で出勤できなくなった。

再びこの世界に近づいてきたのは某放送局で勤務してから。自分が心療内科に掛かるということが、障害と同じように扱われ、組織からはじかれるようになったからである。自分が、当事者になって初めて、福祉の言葉がわかるようになった。弟が感じてきたものを感じられるようになった。

「人として」生きていける場所を求めた。
福祉の仕事をしようと思った。でも、出来ないんだよね。資格がないと今は入っていけないんだよ。知的障害の施設でも、生活できるようなお仕事にはならない。わかっているの。お金がないんだよ。だから、本当はボランティアを望んでいる。今はまだ、「障害者福祉」にはまだ一歩踏み込めない自分がいる。


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